2005 年12 月25 日
サンタクロースが家に来なかった理由
ベランダの鍵を開け、靴下も置き、午後9時に就寝。それでもサンタクロースは来なかった。靴下には絶望しか入ってなかった。まずサンタクロースの存在について。ここまでサンタクロースの話が生き残っており、また、姿まではっきりとしている、と言う事は、定期的にまだサンタクロースが出現している、という事だ。もしサンタクロースが一過性の存在であったなら、既にその御伽話は消滅しているだろう。
では、何故私の所に来なかったのか。そもそも世の中には私より年齢の低い子供が大勢居る。本当に大勢だ。彼らは私よりも夢を持っているに違いない。また、私よりも不幸な子供も大勢居る。サンタクロースの人情を考慮すると、彼らが優先されるのは当然だ。それに加え、キリスト教徒が優先されるのは至極当然だろう。以上の条件より、時間の関係上、私はサンタクロースのプレゼント授与者から外されてしまったのだろう。
私よりも夢がある、或いは不幸な子供達にプレゼントが渡ったのであれば、私は何ら悔しくも悲しくも無い。寧ろそれに対し感謝する。ただ、私の枕元にある靴下に、鳥の羽一枚でも良かったから、サンタクロースが実在するという何らかの証拠が残っていて欲しかったのも事実だ。
夢だったのかそれとも通常通り思考していたのか分からないが、その夜、前方右斜め上辺りから女神の声を授かった気がするのだ。それが神かどうかは分からないが、私の疑問に対し、取り乱す事も無く、絶対的な安心感を持てるような的確な説明を行い、納得出来る結論を出した。その後、同じテーマで一から考えてみたのだが、その時よりも異常な時間を費やした。彼女の存在は私の思考が並列化した存在だったのだろうか。
何にしろ、この思考力が研ぎ澄まされた短い間だったが、その時間は、一種のプレゼントだと思っている。
で、その疑問の内容である。「人を愛するとは何か」というテーマ。
以下エキサイト辞書より引用
>大辞林 第二版 (三省堂)
>あい 【愛】<
>(1)対象をかけがえのないものと認め、それに引き付けられる心の動き。また、その気持ちの表れ。
>(ア)相手をいつくしむ心。相手のために良かれと願う心。
>(イ)異性に対して抱く思慕の情。恋。
>(ウ)何事にもまして、大切にしたいと思う気持ち。
>(2)キリスト教で、神が人類を限りなく深くいつくしむこと。
>→アガペー
>(3)〔仏〕 人や物にとらわれ、執着すること。むさぼり求めること。渇愛。
>(4)他人に好ましい印象を与える容貌や振る舞い。あいそ。あいきょう。
私は愛を(3)の様に求めていた。渇望である。これは唯の欲求、仏教で言う煩悩の一つである。だが、本当に人を愛するという事は違うのではないか。これは唯の独占欲だ。愛ではなく、恋に近いものだ。(1)こそが所謂、人に対する愛なのではなかろうか。結論は「その人が幸せなら私も幸せである」という考え方が「愛」である、というものだ。互いにそう思い願い、相思相愛で居られる事は、どれだけ素晴らしいのだろうか。幸せは無限の増加を繰り返す。
幸せは有限で、他人から奪う事で入手される、そういった物質的な考え方をしていたが、この場合は明らかに幸せの相対的な量は増加している。幸せもエントロピーも常に増大する方向へ向かうのだろうか。
投稿者:未定at 12 :39| 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )